脳とこころ
私たちの心は胸のところにあるでしょうか。それとも脳の働きでしょうか。昔から人は心というと,心臓のある場所をイメージすることが多かったようです。心臓が止まれば死が訪れる,命は心と同義だったせいもあるでしょう。私たちが自分の心をイメージするといっても,それを「見て」いるのは心自身です。心理学では自我を英語の「I」,自己を「Me」と区別します。これはアメリカの心理学の父とも呼ばれるウイリアム・ジェームズが,その著書で心の働きを2つに分けて論じたのがきっかけです。「I」つまり,「私は~する」というときの心の働きと,「Me」つまり,「誰かが私に~してくれる」というときの心の働きは,同じ私に関することであっても明確に違います。前者は主体的な自分,後者は客体的な自分といいます。
自分で自分を見るというと変な話に聞こえますが,私たちは自分のことを分かっているようで,実は分かっていないところがあります。例えば,自分の欠点はすべて分かっていると思いますか?人は自分の欠点のような都合の悪いことは,なるべく考えたくないものです。だから,「裸の王様」という話があるように,権力者は自分に厳しい助言をする家臣を遠ざけて,おべっかを使う家臣だけを身近に置くと,自分が裸であることを誰にも教えてもらえないような状態になるということもあります。自分で自分の欠点がなかなか分かりにくいことを「自己盲点」といいます。自分で自分の顔をみるのは鏡を使わないと難しいでしょう。自分で自分の心を「見る」のも,普通は難しいのです。だから,人の話を聞いて,自分の良くないところを反省し,必要があれば修正します。私はこれを「心の鏡」と呼んでいます。人から「あなたはこういうところがある」とか,対話をしていて私の言うことが相手に納得してもらえないとき,「私のいうことが何かおかしいのかな」と自分に問い直してみたりします。もし自分の心のあり方が不公平だったりすると,改めなければと反省します。こうした自分の欠点とかよくない状態は,人からの言葉や反応を注意深く見ていないと気づけません。だから,コミュニケーションは心を映す鏡になるのです。
気分はなぜ変わる?
気分がハイなときや,気分が落ちこむときがあります。とてもラッキーなことがあれば気分がハイになるでしょうし,とてもアンラッキーなことがあれば気分が落ち込みます。ただ,ラッキーなことがあれば必ず気分が良くなるわけではなくて,むしろ気が重くなることもあるようです。宝くじで1億円当たった人は,とたんにたくさんの知らない人から電話がかかってくるそうです。「誰かにお金をとられないだろうか」という心配が増えてきて,大金を手に入れた喜びよりも,不安の方が大きくなったりする人もいます。なので,私たちの身の回りで起きる出来事が,必ずしも理屈通り私たちの気分を変えるとは限りません。脳の科学では,私たちの気分は脳の中で分泌される「神経伝達物質」と呼ばれる分泌物によって影響されるということが分かっています。代表的なものに,ドーパミンとかセロトニンといった神経伝達物質があります。簡単にいうと,ドーパミンはたくさん分泌されると興奮したり快感を覚えたりしますし,セロトニンは一定の量が保たれることで心が落ち着いて穏やかな気分が維持されます。こうした神経伝達物質は全ての人が脳の中で分泌されていて,心の働き,特に気分に大きな影響を及ぼしています。
例えば,心の病のうち統合失調症やうつ病といった精神疾患があります。統合失調症は昔は精神分裂病と呼びましたが,幻聴や幻覚という目立つ症状があるため,精神疾患の患者さんの象徴的なイメージでした。自分に聞こえない声が聞こえたり,物が見えたりするといわれると,少し気味が悪く感じてしまいますよね。統合失調症の患者さんは,そうした典型的な症状があるのですが,これはドーパミンが過剰に分泌されるためであるということがわかっています。なので,統合失調症の患者さんにはドーパミンの分泌を抑える薬が処方されます。また,うつ病は気分が滅入ってしまって,暗い気持ちがずっと続く精神疾患です。うつ病は厄介なのは,自死のリスクがあり,「死にたい」という気持ちをもつだけでなく,実際に命を自ら断ってしまうことがあることです。最優先で自死を防ぐ対策が必要な精神疾患です。このうつ病の患者さんが憂鬱な気分となるのが,セロトニンの不足であることがわかっています。神経伝達物質は私たちの脳内で新陳代謝が行われています。古いものが体に吸収され,新しいものが分泌される働きですね。しかし,うつ病患者さんは,古いセロトニンが吸収されても,新しくセロトニンが分泌される働きに不具合があることがわかっています。なので,うつ病患者さんにはセロトニンが減らずに一定レベルを保つような働きのある薬が処方されます。このように,私たちの日ごろの気分は,脳内の分泌物の働きの影響を強く受けています。
どうすればいいのか
とはいえ,私たちが自分で神経伝達物質を調節するのは難しいです。「今日はドーパミンがあまりでてないな」とか「今日はセロトニンが低下してるな」と思ったとしても,自力でコントロールするのはなかなか難しいです。最近はやりのエナジードリンクを飲んで気分をハイにすることでドーパミンの分泌を促そうとしたり,バナナやお肉を食べることでセロトニンの分泌が促進されることは分かっていますが,普通は私たちにできるのはその程度のことです。ただ,気分の変化は私たちの気の持ちようでどうにかなるという「精神論」だけでは対処できないということは大事です。「やる気がないのはたるんでいるからだ」といわれて,「そうかなあ?」と半分納得してもそれだけじゃないのではないかと思いませんか?精神論というのは,気合とか根性のような理屈で人の心の状態を理解しようとすることで,簡単にいえば気分は本人の努力不足といった割り切り方をしようとする考え方です。ただ,人間の心の状態は,そんなに簡単なものではありません。自分で努力すれば変えられるというのは,一見立派な考え方にみえますが,努力してもなかなか変えられない人にとってみれば地獄です。私たちの心は脳の分泌物の影響も受けていると知っておくことは,心の問題は私たちの努力だけでは解決できないことがあるという事実を受け入れることになります。もし気分が滅入って勉強や仕事に身が入らず,いくら努力しても改善しない,ときどき死にたくなるといった状態のとき,身近なメンタルクリニックを受診して,薬を処方してもらうことは恥ずかしいことでしょうか?日本人はメンタルクリニックや精神科を受診することに抵抗を持つ人が少なくありません。「無理やり入院させられる」とか「薬漬けにされる」といったよくないイメージが広まっているからです。精神病院のなかには,確かに不適切な医療を行ってニュースで取り上げられるところもありますが,ほとんどの精神科やメンタルクリニックは患者の意思に反して拘束したり,無理やり入院させることはありませんし,薬だって患者と相談しながら,強さや量を調節していきます。それよりも,少し薬の助けを借りることで,あなたの神経伝達物質の調節がうまくいくなら,メリットがあると思いませんか?私たちの心は脳の働きに影響を受けますし,脳の働きは自分の努力だけでうまくいかないこともある,だから時にはメンタルクリニックの薬の助けを利用する,というのはとても理にかなった知恵だと思います。
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