頭ではわかってるのにやってしまう
以前の記事で,モヤモヤするときの話を書きました。そもそも心理学の世界では,強迫という言葉があります。脅迫じゃないですよ。強迫というのは,何かにやらされている感覚とでもいいましょうか,具体的には確認強迫とか洗浄強迫といった行動が知られています。確認強迫というのは,自分ではちゃんと鍵を閉めたと思っているのに,もし忘れていたらどうしようと不安になって,何度かドアの鍵を確認しに戻ってしまうことをいいます。自分では閉めたはずだとか,そもそも普段からドアの鍵を閉めずに外出するようなことはないと頭では分かっていても,もし閉め忘れてたら泥棒に入られたりするし・・・というような不安が原因になるわけですね。洗浄強迫というのは,体のどこかが不潔な感じがして,例えば手を何度洗っても綺麗になった気がしなくて,何度も何度も洗い続けるような行動をいいます。コロナ禍のさなかではウイルスが付着しているかわからないので,アルコール消毒に非常に気を使う日々が続きましたね。そうした通常と違う事態ではなくても,なんとなく綺麗になってない感じから,何度も洗ってしまう,気がすまないといった状態が洗浄強迫となります。強迫というのは,頭ではわかっているんだけど,不安なことがあってそれを打ち消すために不要かもしれない行動を繰り返しやってしまうような傾向のことだといえるでしょう。
無意識のまきこみ
私自身も強迫的なところがあります。大学の研究室を退室するとき,エアコンの電源を切ったことが頭ではわかっているのに,ドアを閉めた後,必ずもう一度ドアを開けてエアコンの電源を確認してから施錠します。自分にそういう傾向があると,他の人の強迫的な傾向も気になります。例えば,一緒に仕事をしている大学の先生は基本的に個人営業で,授業や会議の時以外は結構好きな時間に働いていますし,個室なので普段関わりがないことも多いです。しかし仕事の連絡はしょっちゅうメールでやりとりしますが,学生の指導方針とか,事務的な仕事では結構連携します。それで,同僚のAさんはとてもきちっとした方で,かなり細かく連絡もされるのですが,仕事の種類によっては,ご自分が「こうしなければいけない」というやり方にこだわりがおありで,私などが適当にすると大層不満に思われるようです。ただ,学生の教育に関わるやり方は千差万別で,Aさんのようにきっちりやる指導が絶対良いとは限りません。学生が成長するには,きっちり指導しすぎないことも大切だったりします。しかし,Aさんは私をはじめとした他の同僚がきちっとしていないと思って腹を立てていたりします。私も表面上は,なかなか十分にできていなくてすみません,というようにお詫びしたりもしますが,内心ではあんまり悪いと思ってません。ここで起きているのは,Aさんの強迫的なこだわりに周りがまきこまれようとしている状況です。まきこみというのは,Aさんの場合,自分がこれだと思っている学生指導法はとても価値があることで,同じようにしない他の人の態度は不真面目であるという考え,できれば同じような行動をするよう操作しようとする傾向をいいます。しかもそれは無意識に行われるのでおそらくAさんは意図的に同じ行動をさせようと思ってはいません。まきこみというのは,人間関係のなかで起きるネガティブな現象の一つで,とても複雑な心の働きが作用していると思います。あと,まきこみをする人は無意識的に人を支配したいという欲求ももっていますので,プレッシャーを感じさせやすいです。つまり,強迫というのは,自覚しておかないと人に価値観を押しつけてしまうリスクがあるんですね。
生きるとは責任を覚悟すること
人間関係というのは,とても難しいですよね。強迫という観点でいえば,そういった傾向をもっている人は,他者を無意識にまきこもうとしたり,素直な人はまきこまれてしまったりします。で,そもそもなぜ人は強迫的になるのかということですが,端的にいえば不安だからです。安心したいから強迫的な儀式にこだわるのです。人間関係で私たちが気にするのは人に悪く思われてないかということですよね。しかし,自分の気持ちを押し殺して我慢を重ねれば,人に悪くは思われないかもしれませんが,いつかは不満が爆発してしまうでしょう。そもそも人間関係に正解などないのです。もちろん最低限のマナーはあります。しかし,違う考えをもっている人がたくさんいて,いろいろなことを話し合ったり決めたりして生きているなかで,絶対的な正解などはないと思います。数学の方程式のように決まった解き方をして正解は1つというものではないということです。ここで私が尊敬する心理学者の一人である國分康孝先生の著書の言葉をお借りしましょう。國分先生の著書の1つのなかに「人は他者の権利を侵害しない限り自由に生きてよい」という印象的な言葉がありました。私たちは人間関係に限らず,生きていてどうしたらいいか迷うことがよくあります。強迫というのも,そうした曖昧な世界で生きていくなかで,確かなすがるものが欲しいという不安がもたらすものの1つなのでしょう。しかし,人の権利をおびやかさない限りは自分は自分で選択肢を選び取っていきていっていいし,選び取るべきだということ,それによる責任は自分で引き受けるべきということです。つまり,生きるには自由に選ぶ上で生じる結果の責任に対する覚悟が必要ということなんですね。
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